1. 桜Odyssey
2. EASY BAZOOKA
3. タイムカプセル
4. letters
5. Future In Blue
6. サバイバル Go Go
7. まだ見ぬ季節
8. リズム
9. Spiral Century
10. あてにならない僕の天気予報
11. 蒼寂
12. YOU
黒田倫弘 3rd.ALBUM「Future In Blue」を制作サイドから斬る!ICEMAN脱退後、ソロとしてキャリアをスタートさせた黒田倫弘。
何をやってもいいんだ、という自由を手に入れ、さまざまな音楽性に貪欲に手を伸ばしながら自らのサウンド、歌詞、表現を、荒々しい手探りで模索し制作された1st.al「Barefoot」。
サウンドプロデュースを担った僕自身も、新たに出会った黒田倫弘という個性にサウンドをぶつけていくことを面白がっていた。また彼自身をどうやって面白がらせるか、彼がICEMAN時代に培ってきたキャリアとは、違うベクトルのものをぶつけることで産まれてくる、ヴォーカリゼイション、ライブパフォーマンスを引き出すことが楽しかった。そしてそんな新鮮な、嬉々とした表現をおさめた作品が「Barefoot」だと思う。
ソロデビューした時期に彼を評した文章の中に「ロックをやるには男前過ぎる」という一文があった。
ある種、成功を確約された中でのメジャーデビュー。文字通り一夜にして掴んだロックスターの座。
そしてその場所からの脱却。世の中にある程度認知されてからのソロ活動のスタート。これはあくまでも想像の域を出ないが、おそらく自分の音楽性を見つめること、自分の表現を確立すること、そして自分が認知されていることへの意識、責任。これらが最初から同軸で存在していたのではないだろうか。つまり最初から、作品を産む、ということがそのバランスの中で行われていたように感じる。
事実、彼と作業をしていると、自分の音楽を追求する喜びや楽しみを表すと同時に、リスナーやファンに対しての、ニーズに応えようとする場面によく遭遇する。「これ、みんな喜んでくれるかなあ?」
このことをアーティストとして不純だ、と感じるだろうか。答えはNOだ。
僕も最初は違和感があった。「アーティストなんだから好きなことやればいいじゃん?」
僕自身はもう10年あまり、誰かの為に音楽を創り続けている。発注された通りに、音楽を創る。
アーティストに求められたスタイルで演奏する。アーティストやクライアントのイメージを受けてアレンジメントをする。そしてお金をもらい生活をする。仕事だ。
上手く伝わるだろうか。僕は音楽に夢もロマンも感じている。ミュージシャンを志していたあの頃と、感覚は全く変わらない。それは楽器を手にした瞬間に、メロディーが頭の中で渦巻き始めた瞬間に、蘇る。
仕事だから、とそこに夢を感じないで音楽を創ったことは一度も無い。
しかし、仕事でやる以上、受け取る側の事を考えないで創ったことも無い。
そっか、一緒なんだ。思った。
アーティストは自分の音楽だけを追求していればいい、という一般論は、幻想だ。
矢沢永吉だって桑田圭佑だって、いやポール・マッカートニーもプリンスもみんな戦略家だ。自分が身を削るようにして創った音楽を、1枚でも多く売りたいために頑張っている人たちだ。
クロダはソロになって以降、言葉を書き、メロディを書き、唄を歌い、CDを創り、プロモーションをし、ライブをしながら「黒田倫弘」という商品を、自らの手で管理し続けている。
2nd.Album「遠雷〜out of the garden」はそんなバランスの中で彼自身が自分を研ぎ澄ましていく過程の、表現者としての痛みのようなものが突出したアルバムなのかもしれない。音も自然と痛みや内省に向き合うものになっていった。音楽って面白いなあ。その時は気付いていなかったけど、彼のメロディーや言葉から無意識でそういう音色やフレーズを選んだんだ。コードを付ける時も、楽器を選ぶ時も、その機材の音色のツマミを動かす時ですら。必然だったんだ。
そして。
ついに完成した3rd.Album「Future In Blue」。
こうやって3枚並べてみると、月並みな言葉だがやはりクロダを筆頭にクロダチームの成長ぶりには目を見張るものがある。
よくインストアライブの楽屋などで冗談で「馬車馬のように働いてるよね」などと笑いながら話すことがあるが、怒濤のように走り続けて来た一つ一つの出来事が、ただの一つたりとも無駄なことが無かったんだな、と確信出来てしまう。
それでは恒例の全曲解説にうつります(やっとかよ)。

「桜Odyssey」

「桜Odyssey」
デビッド・ボウイ初期の名曲「スペース・オデティ」に感銘を受けた、ということを聞いて狂喜乱舞した僕と、マネージャー大野女史。デビッド・ボウイに関しては只ならぬ思い入れがある二人は、その楽曲にやいやいアイディアを申し出たくて仕方がない。しかし、一緒にデモを創っている分、僕の方が若干有利である。
というか早い者勝ちか。イントロのフレーズは即思い付いた。宇宙、輪廻、退廃、ループ..そんなキーワードが僕の右脳を占有する。でたらめモールス信号風のループをシーケンサーソフトに打ち込む。そしてそんな思い入れたっぷりの僕を横目に、淡々とアレンジのイメージを指示するクロダと共にバックトラックのレコーディングが終わり、そのデモを大野女史に渡す。頭のモールス信号には何か意味を持たせたい、とクロダ。すぐさまネット上のモールス信号専門のサイトで情報を収集し始める大野女史。そしてあのイントロは出来上がった。あのモールス信号が伝えていることは・・ここでは今は伏せておきます。
そしてエレキギターを録音する際、僕はエンジニアのウラウラ(三浦氏)がいくら嫌がろうとも、激しく歪んだディストーションギターを壁のように何本も重ねることを心に決めていた。4〜5本のエレキギターが、幅広い音圧のレンジを決定付けてしまうことはエンジニアリング的に見るととてもやっかいなことである。
もともと最終的な作品となるCDには、収録出来得るレンジ、いわゆるこれ以上突っ込むと容量オーバーが起こる、飽和状態が起きる、とか、その限界値が決まっている、と言える。プロのエンジニアはその限界値を見極めながら、ボーカルを中心にさまざまな楽器をどのレンジに配置していくか、という責任を担っているわけだ。しかしながら、この3拍子の楽曲の壮大さを助長するには、左右のスピーカーから飽和ギリギリの状態で壁になってるエレキギターが左右それぞれ最低2本は必要だった。そして場面ごとでの世界観の切り替えを、いわゆるPC上の処理(流行りの、音の波形をぶったぎる、というやつだ)ではなく、人間的な楽器のプレイの呼吸で施したかった。
いわゆる轟音ギター(笑)という、一部のUKロック好きの間でのみ通用する言語がある。古くはマイ・ブラッディ・バレンタイン、RIDEあたりのマンチェスター系のバンドに代表されるサウンドである。歪んだエレキギター数本を壁のように配置することで、荒々しさに加え独特の浮遊感や繊細さを醸し出すことが出来る。サビの直前などで左右のスピーカーからカットインしてくる音色に何かを感じてもらえると嬉しいです。
ドラムはご存じ奥田やすひろ氏。世田谷のバーニッシュストーンスタジオで録りました。一度完成したミックスを自らやり直したい、と申し出て完成したエンジニアウラウラ渾身の力作でもある。

 

「EASY BAZOOKA」
今でこそアコギ1本のインストアライブなどでもぺろっと唄ったりしているが、実はクロダにとっても僕にとってもかなりの問題作となった作品。とにかくクロダのこだわりぶりは尋常ではなかった。
クロダ曰く、デモ制作時に「苦手オーラを出す」らしい。僕がである。身に覚えはある。デモをもらった段階で既にクロダの中にビジョンはあった。それは理解しているはずだし、事前にこんな感じ、というサンプルも聞かせてもらっている。いわゆる、どんなオーディオ環境でも突き抜けてくるデジタルサウンド。カーステでもテレビでも、コンビニの店内でも。これ、考えてみれば基本である。意識してなかったわけではないが、今回の事で勉強になった。
・・いいか、ぶっちゃけよう。サンプルとして聴いたのは浅倉大介氏の作品である。彼のサウンドの核を為す素材のひとつにデジタルシンセのシーケンスがあると思う。おそらく、元祖テクノであるクラフトワークやYMOの頃に産まれ、DURANDURANあたりを通って小室哲哉氏が受け継ぎ日本のポップスに昇華させ、浅倉氏が継承していると想像するのだがいかがなものだろうか。いかんせん僕はYMOやDURANDURANは大好きだったものの、その後はまったくといって良いほど通っていない。それらしいシーケンスフレーズが産まれて来ない。最初の段階でつまづいてしまった。プロとして、クロダの目指す方向にたどり着こうと思う反面、僕も物を創る人間である。やはりサウンドへの思いやこだわりはあり、趣味嗜好もある。煮詰まってしまった。
それでも何とか形にしてデモは仕上げたのだが、やはりクロダの中に見えているビジョンとははっきり違っていた。そしてクロダは自分のプロデュースでこの曲を創り上げることを決めた。僕も賛成した。負け惜しみではなく、悔しいとかそういう気持ちはなかった。逆にクロダ本人がそこまで見えている楽曲が、3rdアルバムにどういう作用をもたらしてくれるか、今後のクロダの活動のどういう指針になるか、ということが楽しみだったし頼もしかった。
結果は聴いての通りである。マニュピレーター森くんのハイファイなデジタルサウンドはまさに納得出来る素場らしいものだった。そこにまさしく葛城哲哉でしか出し得ないギターサウンドとアプローチ。イントロにサビのメロディーを盛り込む手法。「これはオレとB'zの松本が編み出したんだよ」僕は本気で感動した。邦楽のチャートにばんばん入る楽曲に、キャッチ−でありながらぶっといロック魂を注ぎ込んで来た歴史を目の当たりにした。
オリコンインディーズチャート5位。
音楽業界にも不況の波が怒濤のように押し寄せているこんな時代に、こんな不器用で無謀なやり方で歩んで来た黒田倫弘のこの勲章は、宣伝費をばんばん使ってタイアップをさんざん利用して・・みたいな時代の終焉を飾るにふさわしい出来事だ。

「タイムカプセル」
そういえばクロダの楽曲の中では珍しい、女性の言葉で綴られた歌詞。軽やかなタッチの楽曲だが、なかなか難産でもあった。打ち込みならではのタイト感と、でも生ドラムをイメージした音色とパターンで軽快なグルーブ感を出すことにずいぶん苦労した記憶がある。
やっぱ複数の女性コーラスが欲しいよね、というクロダのリクエストで僕がプロデュースもしているピアノとボーカルのユニット、アレアレアの二人と、僕のユニットAnything to order?でピアノを弾いてくれている宮原さんに参加してもらった。「キラキラ輝いてた〜」のくだりはアレアレアのRINOちゃんとクロダのデュエットっぽくなっている。こういうのも新鮮でいいな。あ、「revue」という楽曲でセクシーなフェイクをかましているのも彼女である。クロダの半分くらいの身長のRINOちゃんはスタジオのブースに入った時、いつもセッティングされているクロダのマイクとの高さの違いで相当笑いをとっていた。
アサガオの観察、かあ。切ないですなあ。
比較的クロダの楽曲はメロディ先行で創られてくることが多い。
最初にメロディと簡単なオケの入ったデモのMIDIデータがメールで送られてくる。おおっ、ハイテク。全く便利な時代になったものである。それを元にアレンジを始め、バックトラックをレコーディングして、数日後に歌詞が完成して来て唄を録るわけだ。もちろんある程度仮詞があったり、イメージが本人の中にはあるのだろうが、全貌が僕らに明らかになるのは唄入れの日である。だからアレンジする際は、きっとこんなイメージなんだろうな、と想像したり本人とディスカッションしたりしながら作業を進める。クロダ曰く、オケからイメージが膨らむことも多いから、ということだが、アレンジしたイメージとぴったりな言葉が乗っかってくるとそれはそれは嬉しいものである。僕に関してももはや、その影響を包み隠すこともなく、だって好きなんだもん、というレベルに達している岡村靖幸氏の、初期の名曲「Dog Days」。学生時代何度聴いただろうか。あの、切ない感触。僕らが欲しかったのは、あの軽快でありながらギュッと胸をしめつけられそうになる切なさである。
はじめてのゆかた、なんて一言で、幼い頃の夏祭りの匂いをさせてくれると「そうそう!」と言いたくなる。小学生時代の僕的には、アサガオの観察よりもカブトムシの飼育だったわけだが、夏休みの早朝の匂いを思い出して何ともいえない気分になる。僕は、音楽によってこういう、気持ちに揺らぎが起きたり、忘れていた思い出を呼び戻される感覚が起きたりすることが大好きである。
名曲が、またひとつ産まれた。僕の音楽人生においての、である。皆さんはどう感じましたか?

「letters」
この曲がこの3rdアルバムに、これほどまで重要に作用するとは僕も、そしておそらくクロダも想像してなかっただろう。この曲の制作に入った頃、そのあまりにもストレートなメロディーとアプローチにクロダは若干迷いを感じていた。しかし、完成してリリースされ、その後いろんな場面で演奏するたびに、この曲の持つ力に確信が満ちてくるようになった。「曲が育つ」とはまさにこのことだな、と思った。
あたりまえのことをあたりまえのメロディで、あたりまえのアレンジで唄っているだけ、といったら語弊があるだろうか。しかし、たとえば僕で言えば、リハーサルでもライブでもこの曲を演奏するときいつも思うのは、これ以外ないよな、という確信である。アプローチがシンプルであるからこそ演奏に込める想いもシンプルになる。例えば「life」という楽曲はそうではない。あの曲は、何かを背負わないと演奏出来ない。それが何なのかは未だにわからないが、ああ、今日の「life」は100点だな、と思えたことはない。プロ失格かな?
でもその、未完成な何かに背中を押されて力を振りしぼる瞬間に、まったく違う何か、光のようなものが演奏中に降りてくることがある。
そして、この「letters」はいつ演奏しても100点に近いものが楽に出せる。そしてその、気負わずに演奏する感覚の中で、急に160点くらいのものが産まれたりする。 これまた、何かが降りてくる。
やっぱり僕はその両方の、音楽の持つ魔法のようなものを信じている。
クロダ作品では毎回、マスタリングを施してくれているONKIO HAUSの中里氏の、あたたかいアナログサウンドが、シングルバージョンとはまた違った印象にしてくれている。そして、もうこの曲にはなくてはならないものになっている、渋谷公会堂のオーディエンスの皆さんのコーラスもやはりそのまま収録した。

「Future In Blue」
アルバムタイトルにもなったこの曲。イントロから登場する、この曲を象徴付けているギターリフはデモテープの段階でクロダが考えたもの。
すっごく大きく分けるとするなら、これまでのクロダのサウンドはブリティッシュ系、と言えると思う。それはクロダの声や楽曲はやはりそっち側の匂いがするし、僕の根底にあるのもおそらくそっち側であるからだろう。
そんな中でこのギターリフはフレーズ的にいうとアメリカ、大陸的である。
E、B、A、D、E、というパワーコードを用いたリフ。クロダのデモを聴いた瞬間にやはり大きな感じ、大陸的なイメージを連想した。「これはレスポールだろうな」と、僕は最近の愛器であるギブソンのレスポールカスタムを手にした。いわゆるパワーディストーションにはレスポール、みたいなイメージがギタリストならずともあるし、音色も僕なりにそういうアメリカンロックのでっかい感じをイメージしつつ選んだ。
ギターを弾く。この瞬間というのはまったく、両手のニュアンス、いわゆるコードを押さえる左手を放すタイミング、ピックを持った右手のスピード、力加減、6本あるうちの弦のどこを中心に鳴らすか・・・などとまあいくら挙げてもキリがないくらいの要素によって音が紡ぎ出される。そしてそれらはギタリストが100人いたら100通りのタイミングがあるのだと思う。ギタリストによって音が違う、というのはそういう理由だろう。僕にも僕の音がある。のだろう。僕が制作した音源を聞いてよく、葛城哲哉氏が笑う。「ほんとにオマエの音だよな」
音楽を創っている時、演奏をしている時、何を考えているかというと、あたりまえの話だがやはり「恰好良くしたい」ということである。
「大陸的な感じにしたい」とイメージしたからといって「誰それのあんな風なギターに似せよう」とは考えない。「恰好良くしたい」それだけである。そうしてあのサウンドが出来上がった。結果、ブリティッシュな感じと大陸的な感じが融合した、面白いものになったと思う。
そしてクロダの言葉も、壮大なテーマでありながら、ただ力強いだけではない、いつもすべてが強くいられるわけではない、という刹那を踏まえた前向きさ、ひたむきさを感じる。何というか、赤茶けたような情景の中での突き抜けた青さ。良い歌詞だ。漢字難しくて読めないけど。
そしてライブでは、あのイントロはぜひ葛城哲哉氏に弾いてもらいたい、と思っている。ぜったい、また違った「Future In Blue」になるはずである。今から楽しみである。

「サバイバルGo Go」
制作時からポップではじけた感じ、とちょっと内省的なアコースティックファンク、の間を行き来した曲である。ちょっと聞き取りづらいかも知れないが、民俗調のパーカッションループもいくつか入っている。
生の演奏をサンプリングしたループとそのリズムの揺れを感じながら演奏した生楽器。そして規則的に行き来するシンセベース。これらが混然と一体化するグルーブを目指しました。この曲をCDで聞く時はリズムに合わせて足は4拍子、首は裏で2拍子、横に動かしてみて下さい。きっと気持ち良いはずです(笑)。
ライブの時はみんなはっちゃけて演奏しているので関係なく弾けちゃて下さい(笑)。
このトラックのループはSample Tankというソフトシンセサンプラー、シンセベースやシーケンスはE-MUのVintage Proteusという音源をエディットして創った。今回のアルバムでは大活躍の機材たちである。
そしてバックトラックのほとんどは僕の家のスタジオで録音されている。まるで愛着のある自分ちの家具のような、そんなトラックの数々である。どうぞ愛聴してやって下さい。
それにしてもウマイもんである。いや、歌詞の話ですが。「しなやかさとクール、ヤレる男のルール」なんていったいどういう顔をして書いているんだろうか。

「まだ見ぬ季節」
僕のアコースティックギター、染谷俊のピアノ、そしてクロリンの唄。
エディットや直し一切なしの、正真正銘1発録りである。
「Barefoot」に収録された「散歩路」、「遠雷」に収録された「幼い月」、そしてシングルカットされた「蒼寂」。CDに収められているこれらのバラードたちは、アレンジ的には比較的打ち込みの割り合いが多い。もちろん生楽器もダビングしているからリスナーの方にはそういう印象もあまりないかもしれないがベーシックの部分はほぼ打ち込みによって構成されている。
ライブでこれらの楽曲が演奏される度に、年月や回数を経る度に、CDとは違うクロダの息遣いや演奏のアプローチを感じることは少なからずあると思う。何度も何度もCDを聞いてライブに来てくれる方は、「CDの唄い方の方が良かった」とか「CDのアレンジが良かった」と感じることもあると思う。実際僕も自分の好きなアーティストのライブに行ってがっかりすることもある。たとえばポール・マッカートニーのライブに行ったら、「ヘイ・ジュード」はオリジナルの、あのアレンジでなければだめだろう。リンゴ・スターが叩いてた、あのフィルを出来ることなら聞きたい、と思うのはどうしようもないファン心理である。反面、年月が培って来たそのアーティストの成長や、その日その時間の感情の昂り、起伏などを感じることが出来るのもライブならではの醍醐味であろう。
長年敬愛してきたユーミンのライブを17年前に初めて武道館で観た時、それまで聞き込んで来たレコードとは違う、唄の荒削りさ、明らかに感情が昂って音程がシャープしたりシャウトして声が嗄れてしまったりする様を観て、がっかりするどころか凄く感動して涙が止まらなかった記憶がある。
そういう部分と、プロとしてエンターテイメントとして完成度の高いものを見せる、という部分は線引きが非常に難しいところである。「イっちゃってる」という言葉が最も適切だろうか。「イっちゃってるフリ」にはオーディエンスはすぐさま気付く。「イっちゃってる」けど間違えない、とか外さない、とか。ここら辺がこれからのクロリン含め僕らクロダバンドの課題でしょうか。ね?クロリン?
随分脱線してしまったが、今回の「まだ見ぬ季節」はこれまでにない、素直なメロディーの楽曲だと感じたので、レコーディングにはこの、1発録音の手法を取った。もちろん、細やかにアレンジを施して、しっかりボーカルディレクションも行って、という風に録れば、また違った繊細なバラードに仕上がったのかも知れないが、染谷のピアノと僕のアコギが1音1音呼吸しながら紡いでいく様、そしてこのテイクは2番のAメロのクロダの表情が録れた瞬間に、「これでいい」と思った。今日の、この時間の、「まだ見ぬ季節」は完成した、と思った。そういう意味ではこれは「ライブ」なのかもしれない。
そして今後、またいろんな場所でこの楽曲は唄われるだろう。その日その場所での「まだ見ぬ季節」が紡がれていくのだろう。

「リズム」
レコーディングも中盤に差しかかった頃だろうか。今度はこんなアプローチの楽曲にしたい、という指針を聞いた後、二人で、ウチのスタジオ(といっても8畳弱の狭い作業部屋である)に入って作業を始めた。
まずはこの「吐息のループ」がないことには何も始まらない。ドンカマ(いわゆるメトロノームです)を聞きながら、クロダの声を録り始めた。真っ昼間だった。狭い部屋で二人ともヘッドフォンをして、クロダはマイク持って「どんちき」「うっ」「はぁはぁ」・・・。
僕は心持ちいつもよりクロダから遠ざかりながら「あ、そこのタイミングもうちょい前」とか「切れ際がもうちょい息が残るといいかも」などと言いながらマイクを変えてみたり、コンプレッサーのレベルを調整したりしていた。
ヘッドフォンの耳元でクロダの喘ぎ声や吐息を聞きながらひたすらコンピューターに貼付けていく作業は淡々と続き、ボイストラックのループは完成した。
「3人」というシチュエーションで繰り広げられる妄想を、クロダはノートに書き留めていく。僕は「吐息のループ」を中心に、時折差し込むイメージのさまざまな楽器をダビングしていった。
特異なアプローチであるがゆえに、異色な楽曲として捉えられることが多いこの「リズム」だが、メロディーは美しいし、言葉も秀逸である。アレンジも自分ではかなり気に入っている。幾度となくこの曲を聞いた人ももう1度先入観なしで、ただこの音と言葉たちに身を委ねてみて下さい。黒田倫弘の、負のエネルギーの美しさ、みたいなものを感じることが出来ると思います。

「Spiral Century」
出たー。「EASY BAZOOKA」の完成とその仕上がりの良さに盛り上がったクロダチームが、その勢いのまんまレコーディングに突入したこの曲。もはや僕にもクロダにも迷いはなかった。
そしてこのアッパーな楽曲のベーシックのサウンド創りにクロダが白羽の矢を立てたのはCh@ppyだった。
もはや説明も不要かもしれないが、Ch@ppyといえばそのハイパーでパンキッシュな打ち込みサウンドを得意とする、そして先日のクロダの日比谷野音のライブでもそのアッパーな暴れっぷりも記憶に新しい、我がREALROXが誇るマニュピレーターである。膨大なサンプル素材を動物的カンでPC上に組み込んでいく、そのリズムプログラミングには繊細さと荒々しさが常に同居している。
クロダ作品においては「サンディー」「ソレハサテオキ」「Bulldog 66」などでその手腕を発揮していることからも、そのサウンドの特徴はお分かり頂けると思う。
今回は特に、僕もクロダもCh@ppyならこういう音を創る、というのが明確に見えた上でのオファーだったこともあり作業は実にスムーズに進んだ。イッてしまえーとばかりに数々のトラックを組み上げていった。
僕は常にエレキギターを傍らに置いて、まさにCh@ppyのプログラミングとセッションするような感覚で、何か思い付いたらその場で録る、という方法を取った。Ch@ppyは自らのユニット「Trance Noise Machine」などでも自らトラックダウンまで施す場合が多いのだが、今回はアルバムのトータリティも考え、エンジニアのウラウラが唄録りと最終的なミックスを仕上げてくれた。結果、Ch@ppyのサウンドとウラウラのきらびやかで細やかなサウンドメイクが良い感じで混ざりあった作品になった。実は、僕がプロデュースを手掛けた「RUN&GUN」の作品もウラウラとCh@ppyという、このメンバーで創っている。
そんなキラキラしたサウンドの中でそれはそれはタイトに唄い刻まれるクロダのボーカル。「ソロになって以降、敢えて排除してきたようなとこもあったけど、やっぱ故郷だからさ」と語るデジタルロックサウンド。
圧倒的にハマっていると思う。ライブでもがんがん盛り上がる。
音楽業界のほとんどがPro toolsを中心とするDAW(デジタルオーディオワークステーション)で作業が行われるようになった昨今、方法論としてのデジタルだ、アナログだなどという議論はもはや意味を為さない。
大事なのはクロダ自身から産み出される「うた」にアレンジ上どういう素材が必要なのか。それがきっちりクオンタイズされたシーケンスフレーズなのか、ハイパーな打ち込みドラムのビートなのか、それとも空気感のあるアコギなのか、人間的な揺れを感じる生ドラムなのか。その上で選択すべきなんだということに改めて気がついた。
もはや世の中の音の最終媒体はほとんどデジタルである。そこに録音される前の段階で僕らは、アナログでしか出し得ない暖かみを表現したい時はアナログの楽器を使用する。相反するものを求める時はデジタル楽器を使用する。
それだけのことである。今回、「EASY BAZOOKA」「Spiral Century」らのレコーディングを経て何だかひとつ吹っ切れた気がする。
ある種方法論としてアナログであること、アナログっぽいこと、にこだわりを持っていた僕は、今回自分の故郷でもあるデジロックサウンドに向かい直したクロダと共に作業を進める中で、またひとつ成長出来た気がする。んなこと関係ないんじゃんね。かっこいいもんが出来れば。

「あてにならない僕の天気予報」
そういう意味で言えば、暖かみのあるアナログっぽいサウンド、を目指した楽曲ではある。使っているのはデジタル楽器が圧倒的に多いが。
これはクロダの中では前々から暖めていた作品であり、彼の主演映画である「ROUTE58 ver.zero」に既に使用され、同映画のサウンドトラックにも「"LATIN"」という仮タイトルでインストバージョンが収録されている。こちらは映画のシーンとリンクさせる意味合いもあり、古ぼけたラジオから聞こえてくるイメージのアレンジになっている。ラテン、というよりもレゲエ、ダブっぽいインストに仕上がっている。興味のある人は聞いてみて下さい。そして今回のアルバムに収録されるにあたって、もともとクロダがデモでイメージしていた、きもR&Bっぽいサウンド(R&Bフレーバーをちょっぴり含んでいる、の意)でアレンジし直すことになった。
さて。と僕はアタマをひねった。邦楽のMTVを観ていると連日大量にオンエアされている、典型的なジャパニーズR&Bのサウンド、もちろんその中にも素晴らしいものも幾つもあるのだが、はたしてそういう類いのサウンドをクロダに、特にこの楽曲にあてはめたところで面白いものになるだろうか・・・?
僕はこの曲のデモを繰り返し聞いた。なんかイメージが産まれてこないかなー。
く、黒田倫弘、ロック・・エレキギター・・R&B、ソウル・・ぼんやりと見えてくる。ん?なんだ、この切り揃えられた前髪は??モッズスーツ?あ、ポール・ウエラーだ。そういやこの人の音は大好きだな・・あ!!スタイル・カウンシル!
ご存じだろうか、元々はスタイリッシュなパンクバンドとして一世を風靡していたザ・ジャムのポール・ウエラーが80年代に始動させたユニット、スタイル・カウンシル(以下スタカン)。パンクというカテゴリーに属していながらもザ・ジャムは細身のモッズスーツに身を包み、その英国紳士的なスタイルで、スマートなバンドだった。
短髪、モッズスーツにアーミーパーカー、そして派手なデコレーションを施したべスパというバイク。80年代にパンクに接近遭遇した人は今でもこんなキーワードに胸が熱くなるはずである。そして極め付け「さらば青春の光」という映画があるのだが、これがまさにそのモッズムーブメントを象徴している。
あ、熱くなってしまった。すいません、脱線しました。そんなポール・ウエラーが、ジャズやR&B、ボサノバなどを取り入れて始めたのがスタイル・カウンシルなのだが、いわゆる本物指向の人からは酷評されていた。僕も当時、ブラックミュージック好きの先輩から「そんなの聞いてんの?」とうすら笑われた。それもそのはず、パンク出身で、ギターも唄もテクニック的には上等とはいえないポールが、つばをまき散らしながら一生懸命おしゃれなサウンドに乗せてギターをかき鳴らし唄っていたのである。でも僕はそんなスタカンが大好きだった。そんなポール・ウエラーが恰好良くてたまらなかった。
誤解をおそれずに言うと、僕は黒田倫弘のかっこよさ、とはそんなところにあるような気もする。そりゃ圧倒的に男前である。鍛え上げられたスタイルは唯一無二である。どこかのライブハウスの宣伝文句には「イケメン/ボーカル」と評されていた。ほっといても男前なそんな彼が、ライブになると魂全開で顔をくしゃくしゃにして唄い叫ぶ。コントロールが効かなくなって声が出なくなったり、音程も歌詞もすっ飛んだりする。不器用なMCをかます。
かと思うと呆然とするようなラメのジャケットを堂々と羽織る。どこで探してくんだ、というような帽子で記念すべき日比谷野音のステージに登場する。 ある時は汗をだあだあかいてレコード店のちっちゃなステージでアコギ1本をバックに唄い踊る。何もしらない通りすがりのおばちゃんからおひねりが飛んで来たりする。かっこいいじゃあないか。
・・あ、また脱線した。
まあちょっと後付けっぽい気もするが、そんなこともあってこの曲にはスタカンっぽい、荒っぽさがあるといいな、と思った。そしてこの冒頭のエレキギターである。つるっとした、耳触りのいいギターサウンドよりも、6本の弦全部を引っぱたいているような、でも暖かみのあるサウンドがこの曲には合うんじゃないかと思った。もう15年来の相棒である、僕と同い年のセミアコ、エピフォンのカジノというギターでレコーディングした。あちこちガタも来ていてチューニングも良くない、そんなギターなのだがとにかく安心出来るのだ。お互いくせも知り尽くしていて多少乱暴に扱っても言うことを聞いてくれる。そんなカジノでバッキングを一気に録り終えて、そこからその他のアレンジに取りかかった。質感を重視した、無機質なドラムループ。ウーリッツァー、オルガン、アナログシンセ。生のベース。骨格がほぼ出来上がったところで、もうひと味欲しくなった。僕とクロダの音楽の共通項にスティービー・ワンダーがある。ほんのイタズラ心でスティービー風のシンセを間奏に入れてみたらこれがもうわくわくするようなフレーズがどんどん産まれて来てしまった。これはもう、ライブでの再現性はともかく、思い付いたことは全部やってしまおう、と買ったばかりのクロマチックハープ(スティービーと同じモデル!)のソロまで入れてしまった。このクロマチックハープというのがかなり曲者で、というか難しいのである。ちょっとした思い付きではあったが、聞こえてくるフレーズを表現するにはずいぶん時間を要した。それでもそういうものには労力を惜しまないことがきっと作品にはパワーを与える、と信じて作業を進めた。結果、こういうアレンジが産まれたわけですが、みなさんの耳にはどう映っているのでしょう。僕にとっては、棺桶にまで入れてでもずっとそばに置いておきたい楽曲になりましたが。

「蒼寂」
クロダにとって映像とは何なのだろうか。さまざまな場面で彼がいかに映像を重要視しているかを感じることがある。
もちろん音楽はイメージである。そのイメージをさらに奥深いものにするために映像はとても重要なものであると思う。
アーティストによっては、アレンジする時の音色を色や映像で指定する人もいる。「そこはブルーな感じで」とか「バグダット・カフェ」みたいな色合いで」とかいった具合に。
人一倍映像にこだわりがあるように思えるクロダが、音を創っている時にその手の発言をすることは実はあまりない。
「ROUTE 58 ver.zero」という映画でクロダは主演、そして音楽監督をつとめた。
この「蒼寂」という楽曲はこの映画と非常に密接した位置関係で制作された。映画の中で、この曲のモチーフがいろんな場面で使用された。どちらかというと陰鬱なトーンの多い、この映像のサウンドトラックを制作している時ですら、クロダが色や映像のことを口にしたことはあまりなかった。どちらかというとそのことを説明するのを避けているようにすら思えた。どちらかというと指定してくれれば楽なのに、と思うこともあった。
この楽曲のイントロで皆さんはどんなシーンを連想するだろうか。もちろん僕にも、こんな色合い、映像を喚起させたい、というイメージはある。そのイメージに合うようにバスドラの音色を選んだり、ハープのフレーズを創ったり、コード進行をひねったりするわけだ。最初にクロダから楽曲が産まれてくる。そして僕のフィルターを通りアレンジされ演奏される。そしてエンジニアのフィルターを通りミックスされる。そしてマスタリングエンジニアのフィルターを通って最終的に商品化される。そして皆さんの耳に届く。後は聞く人次第。昼聴くのと夜聴くのではもうイメージが違うだろう。雨の日と晴れの日でも違うだろう。恋人と幸せな時間に聴くのと、悲しみにうちひしがれている聴くのとでもまったく違ってくるだろう。
ひょっとしたらクロダは、そんな不特定多数の人に少しでも幅広くイメージを喚起してもらうために、その色合いや映像のイメージを口にしないのかもしれない。自分が創った楽曲に、少しでも幅広い映像、色合いを持たせるために。
そう考えたら急にいろんなことが頷けたりしてきた。
アーティストってすごいな。自分の作品のために、本当にいろんなことを考え、悩み、書き、行動している。
そういう意味では僕はやはりアーティストではないかもしれない。いろんなアーティストと仕事をする上で、一人の人のことをそこまで深く掘り下げたりすることはない。もちろん音を創る時は全力だ。全身全霊を傾けている。しかしどんな人と仕事をしていても、やはりそのアーティストが自分の存在価値を掘り下げているのを見る時、ああやはりかなわないな、と感じる。心から尊敬に値するシーンに遭遇することもある。そんな時、この仕事をやっていて本当によかった、と思う。
いろんな現場でそんな心の振り幅を経験して、新しい何かを持って、またクロダとの制作に入る。それが終わればまた違う人と音楽を創る。その繰り返し。
だからこそ、僕の立ち位置、そして僕とアーティストの関係性が成り立っているのだろう。
そして、CDとして完成したこの作品はその後、いろんな形で演奏される。ある時はアコースティックギター1本で。ある時はクロダバンドで。ある時は弦楽四重奏をたずさえて。また、いろんな人たちのフィルターを通ってこの曲が生まれ変わるわけだ。
日比谷野音で去年、この曲が演奏された時、灼熱だったステージにとても心地よい風が吹いたことを昨日のことのように覚えている。深海をイメージして創ったアレンジが、真夏の野外ステージでまた違う、大きなイメージを持って再現された瞬間だった。

「YOU」
長かった。結局次のアルバムが完成するころにやっと、この「Future In Blue」のレビューが終わるわけだ。
待っていて下さった方もいるだろうか。本当にごめんなさい。
黒田倫弘は美しい。うん、確かにそうだ。あの及川ミッチー光博が、飲み屋で偶然クロダと遭遇して「(クロダが)ソロで出て来た時はつぶしてやる、と思ったけど、でも黒田くん綺麗だから好き」と言ったとか言わないとか。
本人も痛いほどに、自分が美しいことは自覚しているだろう。これは間違いないだろう。そしてそれをはっきりと商売にもしていると思う。そしてアーティストとして、自分はどこに行くのか、何を唄うのか。それを模索していくこと、そして唄い手である限りその模索、苦しみは続くのだ、ということ。
そんな決意表明であるのかもしれない。この「YOU」という曲は。
そういう事を、クロダの口から聞くことはほぼない。やはり彼はその手の説明をほとんど口にすることはない。だからあくまでも想像なのだが。
居酒屋などで一緒に飲んでいると、クロダは本当に普通のあんちゃんである。まるで「黒田倫弘」であることのオーラをいとも簡単にどこかにしまい込んで。そしてそのオーラや美しさをオンにするスイッチはクロダ自身しか持っていない。当たり前のことかもしれないが。
この曲のオケが完成し、唄入れの日まで僕はどういう歌詞になるのか知らなかった。
美しく、激しいバラード。ただ、「life」との対比で、ゴリっとしたバンドサウンドで行こう、ということくらいしか決まってなかったと思う。そして唄入れ当日歌詞を見せられて、僕はちょっとした拒否感を覚えた。
もっと、楽曲としてストーリー性のある、クオリティの高い歌詞もいくらでも書けたはずだ。
クロダの作詞のスキルはすさまじい勢いで上がっていた。でもクロダはあえてこのゴツゴツした言葉を乗せてきた。
しかし。ボーカルをレコーディングし始めてすぐに、僕は思った。ああ、今クロダはこれを唄わなきゃいけないんだ。彼にはこの唄が必要なんだ、と。「お金も時間も喉から手が出るほど欲しいけど そんなんじゃねえ 本当に欲しいのは・・・」美しいはずの黒田倫弘から発せられた、醜いほどのこの表現が、アーティストとしての決意表明なんだろう、と思った。
それが正しかったかどうかの答えなんて1年経った今も出てはいないし、じゃあ10年経ったら出るのかどうかもわからない。
でも、今日もクロダは唄い続け、書き続け、そして美しくあり続けている。同時に年齢も重ね、若かりし頃の無防備な美しさとはちがう、強さのようなものを備え始めている。それは「YOU」を書き、何度もステージで唄い、迷ったり、悩んだり、笑ったり、酔っぱらったりする日々の中で、少しずつ蓄えているものなのかもしれない。
5年後、10年後、黒田倫弘がどうなっているのか、僕は見続けていきたいと思う。
今のクロダをとても愛しているファンの人たち。
彼はとても真剣に、自分の音楽に向き合っています。愛するに値する人物だと思います。もちろん、つまらなくなったら離れていってもかまわない、というかファンなんだからそれが当たり前だと思います。ただ、人として、という部分で、彼は信じるに値する人です。
音楽産業、とか、エンターテイメントという意味ではめちゃくちゃな意見ですが(笑)。
この「YOU」は彼の真実だと思います。2003年の、黒田倫弘の。

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